纏足(てんそく)は中国の伝統的な風習の一つとして知られていますが、なぜこれが行われ、どのように実施されたのか、またその後廃止に至った経緯はご存知でしょうか?
纏足は美とされた一方で、臭いや衛生面の問題も指摘されており、当時の女性たちにとってどのような影響があったのかにも注目が集まっています。
本記事では、纏足の歴史的背景から具体的なやり方、廃止までの経緯、そして現代の見解までを詳しく解説します。
纏足は臭いってホント?
「纏足は臭い」という話は事実と言われています。
纏足(てんそく)は、幼少期に足の骨を折り曲げて小さく変形させることで「三寸金蓮」と呼ばれる美しい小さな足を作り出すための風習でした。
しかし、纏足を行う際に巻かれる布はしばしば不衛生で、足が圧迫されて血流が滞ることからも、悪臭や感染症の原因となっていたとされています。
また、纏足を施された女性たちは歩行が困難で、足の洗浄や換気も十分にできなかったため、湿気や細菌がたまりやすく、さらなる悪臭が生じる環境が作られていました。
こうした衛生面の問題は、纏足が身体に与える影響の一つとして、当時から指摘されていた点です。
纏足のやり方は?
纏足のやり方は、幼少期に始められ、非常に痛ましい過程を伴うものでした。
主に以下のような手順で行われました。
- 年齢と開始のタイミング
纏足は通常、5歳から6歳の女の子に施されました。まだ骨が柔らかい時期に始めることで、足を小さく変形させやすくするためです。 - 足の骨の曲げと折り
まず、女の子の足を温水に浸し、皮膚と骨を柔らかくしました。その後、すべての指を足裏に折り曲げ、特に足の指が足の裏に食い込むように強制的に骨を折ります。足の甲を強く押しつけ、足全体を小さく折りたたむようにします。 - 布での固定
足を折り曲げた状態で、長い布をきつく巻き付けます。この布の巻き方は非常に重要で、足が固定され、元に戻らないようにします。巻いた布は頻繁に交換されましたが、そのたびにさらにきつく巻き直され、足の変形を進めるために使われました。 - 痛みと感染症
強い圧力がかかることで、歩行が困難になり、血流が悪くなり、感染症が発生しやすくなりました。感染症にかかることが多く、爪が内側に食い込むことで化膿したり、さらに悪臭や痛みが強まったりしました。 - 習慣化
長い年月をかけて繰り返され、少しずつ足が変形していくと、結果的に「三寸金蓮(約7~8cm)」と呼ばれる小さな足が出来上がります。この足は当時の美の象徴とされていましたが、同時に女性に生涯にわたる苦痛と制限を強いるものでした。
この一連の過程は非常に痛ましく、身体的な苦痛や衛生面での問題も大きく、女性たちに多大な負担を強いるものでした。
纏足の現在は?
纏足は現在では完全に廃止されています。
20世紀に入ってから中国の近代化が進む中で、「女性の健康や人権に対する重大な侵害」として批判を浴び、特に清朝末期から廃止運動が起こりました。
1912年に中華民国が成立すると、纏足は禁止され、さらに1949年に中華人民共和国が建国された際には厳しく取り締まりが行われました。
その後、纏足は歴史の遺産となり、現在では行われていません。
現代の中国では纏足はもはや社会的に受け入れられず、むしろ過去の悲劇的な風習として語り継がれています。
纏足を経験した最後の世代も高齢化が進み、ほとんどの人がすでに亡くなっているため、纏足は今や歴史上の遺物と見なされています。
現在では、中国の一部の博物館や資料で纏足の履物や関連の展示物が見られるのみで、纏足そのものは現実的な存在ではなくなりました。
纏足が廃止となった背景は?
纏足が廃止に至った背景には、国内外からの批判や社会の変化、近代化による価値観の変容が関係しています。
以下に、その背景を詳しく説明します。
1. 西洋文化との接触と批判
19世紀後半に中国が西洋諸国と本格的に接触を持つようになると、纏足は西洋社会から「非人道的で野蛮な風習」として批判されるようになりました。
特に欧米から中国に派遣された宣教師や外交官、ジャーナリストたちが纏足の風習を目の当たりにし、それを「人権を侵害する慣習」として非難しました。
このような外部からの批判は、徐々に国内でも纏足を見直す動きにつながりました。
2. 女性の地位向上と平等思想の普及
中国国内でも、清朝末期になると西洋の思想や文化が取り入れられ、女性の地位向上や平等を求める声が高まってきました。
特に、知識人や改革派は纏足が女性にとっての大きな負担であり、彼女たちの自由と健康を奪っていると考え、纏足の廃止を訴えるようになりました。
女性が男性と同じように学び、社会で活躍することが求められる時代背景も、纏足が廃れていく一因となりました。
3. 清朝末期の改革運動と中華民国の成立
清朝末期には、国内で近代化の必要性が叫ばれ、康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)などの改革者によって纏足廃止運動が進められました。
清朝の崩壊後、1912年に成立した中華民国政府は、纏足を法的に禁止しました。
この禁止令は女性の健康と人権を保護するためのものであり、新しい社会の一歩として支持されました。
4. 中国共産党の取り締まり
1949年に中華人民共和国が建国されると、纏足は「封建的で迷信的な風習」としてさらに厳しく取り締まられました。
中国共産党は社会の平等や人民の解放を掲げ、纏足を過去の抑圧的な風習として廃止を徹底させました。
共産党政府は、特に農村部においても纏足の廃止を進め、実際に纏足をしている女性の足を解放するためのキャンペーンを展開しました。
5. 近代化と新しい価値観の普及
近代化が進む中で、身体の健康や自由が重視され、纏足のような風習が女性の生活を不自由にするものとして批判されるようになりました。
新しい価値観の普及によって、「三寸金蓮」としての美の概念も廃れ、女性の美しさや価値は健康や自立にあるという考えが一般化しました。
これらの社会的・政治的・文化的な変化が相まって、纏足は完全に廃止され、歴史上の一つの風習として語り継がれるものとなりました。
纏足は臭いってホント?纏足の現在・やり方・廃止となった背景は?まとめ
纏足は過去の風習として歴史に残されており、現在では廃止されていますが、その背景には多くの苦難と美意識の変遷がありました。
この風習が与えた影響と、現代に生きる私たちが学ぶべきことを知ることで、新たな視点が得られるのではないでしょうか。